自分とは

2006年1月23日 日常
遊ばせてもらっているgraffitiっていうSNSで
「一番大切にしているものはなんですか?」
という投げかけがあって、
ちょっと考えて僕が出した答えは「自分」

そのSNSに書いたことをコピーします(以下)
―――――――――――――――――――――――

自分大好き。
自分がしたいことするし、嫌なことはしない。
自分が幸せになれるような行動する。

間違っても「他人なんかどうでもええわっ!!」ではないので誤解しないで下さいね。

―――――――――――――――――――――――

読んで字のごとく、僕は自分が大好きです。
あなたがあなたのことを好きと思っているレベルよりも
きっと、僕が僕のことを好きやと思っとるレベルのほうが高いです(笑)
それくらい自分自身が好き。
象さんよりもキリンさんよりも自分のほうがもっと好き♪

ただ、最後のほうにも書いとる通り、他人がどうでもええわっていうことではないです。
僕だって家族は大切やし、友達が好きです。
人を笑わせるのが得意and楽しみな性格も持ってます。
本気を出したら、誰でも笑わせる自信アリ!?

でも、考えてみると家族・友達が幸せになると自分が(も)嬉しいし、
友達が笑うと自分が(も)楽しくなるってことを無意識に感じてるハズやと思っちゃったりしてるんです。
もちろん普段そんなこと考えてバカやってるつもりは無いし、一瞬一瞬の間(ま)が命取りになる“笑い”という雰囲気の場にそんな邪念を持ち込めるはずもないんだけど(笑)、
無意識に悦を感じてて、悦を感じるためにそういう行動に出ているんじゃないんかなって思ったりしてます。

そんなこと言うと、全ての行動は意識あるいは無意識に悦を感じれるように帰結するんじゃないのかと。

そしてやっぱり“他人のため”にすることは“自分が悦を感じれる”からのような気がしてきて、
もちろんそれは意識しとるかもしれんし無意識かもしれん。

困っている人をほっとけないだとか、相談されたら親身になって答えるとか、
人を思って、人のために自分がとる優しい行動は、無意識的にでも自分が悦を感じとるからかもしらん。

そうやって自分が悦を感じているとしても僕はそれを悪いことやとは思わない。
むしろ、良いことやと。
他人が幸せになれば自分も幸せになれる。すごいことやん。
邪まな気持ちがあるわけでも、偽善であるわけでも全く無い。

“自分”という言葉の範囲が“1人の人間としての自分”に収まりきれず、
家族も自分、友達も自分、みんなも自分、動物も地球も全部が自分のような感覚じゃないんかなぁーって。

故郷を離れた土地で同じところ出身の人に会うと、
妙な親近感を覚えると思うんやけど、
それって自分とその人を同じ土地の出身者というカテゴリーにまとめるからで、
自分自身と同じカテゴリーにあったり、いたりするものは親近感を覚えるし、
そのカテゴリーに入ってないものより大切に大事に扱おうとするやろ?

いま、“自分”っていう言葉のカテゴリーを1人の人間である自分自身からもっと大きな意味合いにまで広げたら、
“自分が大好き”という言葉の内には単純じゃない意味が出てくるんやないかと思ってます。

長いこと書いたけど、
大体そんな感覚で“自分大好き”とSNSに書き込みました。
と言っても、僕自身、自分の意味をそこまで大きくすることはまだできてないですけどもね・・・・(汗)。



書いた後読んでみると、こんな少し危なげな意味分からん思考を自分ももっているとは驚いた・・・・。
でもこんな意味分からんこと書いとる自分も大好きです(笑)

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